リテラシー:読み解く力、文章で表現する能力がいかに
「人間らしさ」を育むか
ブルックス・ディビット、准教授
David L. Brooks,
一般教育部 英語単位
Translated into Japanese by Mikio A. Brooks
本との出会いは、我々の人生で出会う人々の様に千差万別であり、我々が一生で訪れる場所や経験してゆくことと同等に我々を感化する上で大変重要な役割を担うことがあるかもしれない。なぜ「かもしれない」と表現したかと言うと、それは最終的に我々がリテラシー(つまり文章やニュース、情報や数値などの意味合いを正しく読み解き、理解する力、そしてなんらかの情報や自分の意志をうまく人に読み書きを介して伝達する能力、あるいは行動につなげる力)を、自分や他者のためにうまく活用できるかによって、その「本」、「出会い」または「経験」の質が左右されるからである。我々人間は時間や空間を超えて、自然界に対する驚きや自分たちの物語、過去の栄光や培った知識、そして未来の人々に向けた英知や志、そして警鐘などを記録して保存する唯一の地球上の生物だと言えるだろう。あらゆる考えや思考を文献などとして残せる能力は後世の手本や道しるべとなるものであり、人類の偉大なる特色の一つと言えるだろう。
人間以外の生き物は自分達の考えや経験を判別可能な形で記録し、残すことが出来ないが故に燃え尽きるかの如く、その一瞬、一瞬を単純に生き、その栄光や名を残すこと無く息絶える運命にある。しかしながら、人類とは自分達や集団的な歴史や経験、そして生き様や信念を形どった記録として残すことができる。それらは、今を共に生きる現世の人々に伝え、そして後世の人々に継承してゆくことが出来るはずである。
さて、この定義を念頭に置き、私は自分の人生において読み書きの能力が私自身の人生にどの様な影響を及ぼしたかについて皆さんと振り返りながら、それをきっかけに皆さんがそれぞれ大学生、大学教職員として、改めて効果的なリテラシー・コミュニケーション能力についてより深く考え、それらを高めていくきっかけになってくれることを真摯に願う。ここで「リテラシーや言語の習得」を「自転車を乗りこなして目標地点まで移動する」ことに例え、より深く掘り下げて説明してみたい。自転車を乗りこなすスキルを習得する事は役立つことだが、その効果を存分に発揮させるには以下の様な条件を揃える必要がある。
1)まず、必要な時に乗れる自転車を実際に所有していなければいけない。
2)自転車を所有し、且つ自転車の乗り方をすでに体得していなければいけない。
3)自転車で向かいたい、大まかな、あるいは明確な目標地点を持たなければいけない。
4)最後に上記の条件を整えた自転車の所有者が時折、実際に自転車に乗り、いざ行きたい場所が生じた際の予行演習や訓練を前もっておかなければいけない。
読み書きの能力、つまりリテラシー・スキルは自転車を乗りこなす、すなわち人生の中で自分の目標に向かって、自分の考え、自分の言葉や行動を活用しつつ、突き進む行為に相当し、「自転車」をうまく乗りこなすには、周りの状況を識別・把握する能力、つまり「認知能力」、物事の核心や善悪を冷静に判断し、行動を動機づける「感情や心」、そして前に進むための推進力を生み出す「身体的な能力」が求められる。これら読み書きのリテラシー能力は総括的に、自分の母国語のみならず、人類の歴史上、他に類をみない国際公用語となっている英語の習得、又は国際的観点から人気のあるスペイン語、中国語、フランス語、ドイツ語、アラビア語やロシア語などの言語や、それらと同様に重要だがよりマイナーな第二言語の習得、そしてそれぞれの言語におけるより高度な領域でのコミュニケーション能力の育みや習得するプロセスにも密接に関わっている。道具やスキルとしての言語習得をする場合、まず「自転車」を自分の物にすること、つまり基礎的な語彙やコミュニケーション能力に必要な言語のルールを学習し、自分の一部として「所有」しなければいけない。そして「自転車」をうまく乗りこなす様に、自分の意志や考えを伝達する上で、又は他人の言っていることを理解し、要求などに応えてゆく上で、その言語をうまく操れる様に「習得・体得」しなければいけない。これによってまず、基本的なコミュニケーションが成立する。ただし、外国語や第二言語の単語や正しい文法を知っている(自分のものとして「所有」)状態だけでは言語を効果的に「操縦・活用」しているとは言い難い。まるでそれは自転車の「ペーパー・ドライバー」の様である。自転車の基礎的な乗り方を覚えるのは比較的容易であるため、世界中どの国においても普通の自転車を動かすためには「免許」は必要ない。読み書きの能力の習得も同じことが言えるだろう。基礎的な部分では習得することは容易であり、人は自分の意志を伝達することや、コミュニケーションを図る場合には「免許」を必要としない。なぜなら、呼吸をすること、食事をとること、歩くことと同様、人間の生きてゆく上での基本的な行為であるためである。英語の様な言語を習得することは楽器の演奏、泳ぎ、そして自転車の乗り方を学んだり、体験していく様に本来ごく自然で、楽しく、単純な事であるべきである。
日本に長年住み続けている、アメリカ出身の一個人の大学教員として日本社会、日本の大学教育などに対して言いたいことはたくさんある。特に残念なのは、日本の受験制度、日本の型にはまった英語教育の概念、そして現代の競争社会ゆえに生まれる多忙さによって本来あるべき、第二言語の習得や活用の根本的な楽しさや面白みが失われ、そして学生が自分の習得した言語を(母国語も含め)活用した上での自己の意志表明、あるいは自分の本当の目標の設定やゴールに向かって突き進むことが大変困難であり、この現状がとても嘆かわしい。しかしながら、本文の中心的なメッセージに話を戻すと、私が伝えたいことは皆さんが自分の母国語・第二言語の「自転車」をうまく乗りこなしてもらい、その上で読み書き(リテラシー・スキルや能力)を駆使して自分の経験や知識、自己の気持ちや意志を英語などの第二言語、そして自分の母国語である日本語でも積極的に発信してゆき、同時に他者から発信されるメッセージや情報を上手く読み解いて相互理解やコミュニケーションを熱心に図ってもらいたいということである。そうすることで、結果的に自分の目標がより明確になり、進みたい道がおのずと見えてくるだろう。それと同時に自分の気持ちや意志を言葉に込めて記録してゆくことは、この地球上に存在する何億人もの他者にとっても有益となる情報、動機付け、そして道しるべと成りえるだろう。リテラシーという概念を上手く「乗りこなし」、是非とも皆さんには自分の「人間らしさ」、そして何より「自分らしさ」を育んでいただきたい。
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